日記
よくLGBTというアルファベットの文字列と差別や人権みたいな言葉が並べて議論されているのを見かける気がします。
私はLの立場から見える事しか知らないけど、例えばLのコミュニティではBやTの人は肩身が狭い思いをするという話を聞いた事があるので(それぞれn=1なのですが)、よく耳にするようにセクシャルマイノリティという項でいくつかのグループをくくるのは適切じゃないんだと実感します。
ところで私は差別って何なのかよくわかっていない気がします。中高時代から女の子しか好きになった事はないし、当時から同性愛という概念を知っていたし、同性愛を差別してはいけないという教育を受けた事があるのにそれらを結びつけて考える事が無く、自分が差別を受けていると自覚した事が無いからなのかもしれません。
例えば同性愛を下品な笑い話にしたり、嫌悪感を前面にだしてみたり、そういうのって、大抵話している相手が同性愛かもしれないという可能性を考慮せずに発されるし、同性愛者も自分達を同じように見ているという事を想定していなさそうだなぁと思います。憶測ですが。
正直私はそういう人が大勢いる事実は認めるけど異性愛は生理的にちょっと無理・・・みたいに思っています。そんな事普段は絶対に言いませんが(今言ってしまいましたが読んだ瞬間忘れてください( ´•̥ו̥` ))。理由は、言っても何も得るものはなく、多分もっと大勢で言い返されて自分の立場が危うくなるだけだろうなと予想できるからです。
こういう非対称な関係性は不平等に感じられるし、その不平等感の根拠として相手の中に差別意識を見出してしまう気がします。
多分自明な事を明文化してみる
A1について知っている人にはA2〜Anまで話せるみたいな感じなんだと思っています。
久しぶり
ブログを更新していない間、就活のような期間があったり夏休みが終わったりしていました。
最近映画を見る頻度が高くて、アリスインワンダーランド、シン・ゴジラ、ゴーストバスターズ、君の名は。は映画館で見ました。
あとはDVDやamazonビデオでキャロル、クレヨンしんちゃん ヘンダーランドの大冒険、エスター、サウンド・オブ・サンダーを見ました。
就活のような事に関しては色々思う所があり、今もまだずるずるそれを引き摺っているのですが気が向いたら書いてみる事にします。
さきさんと近い将来から遠い将来の話をする事があります。
同棲や親へのカミングアウトや年金やシーズーを飼いたいという事など。
社会の制度の事を今まであまり知らずに来てしまって今も分かっていない事が多いけど、とりあえず独身貴族という言葉について、貴族じゃないと独身でいるの難しくないですか・・・と思いました。
最後はパートナーという言葉が苦手な事について。
あと、彼女と恋人を3人称として使うのは違和感あるなぁと思ってしまいます。
「私には彼女がいます」はokだけど、「彼女は今日遅刻するそうです」は苦手で、これは多分人にわかってもらえない私のこだわりポイント。
パートナーと言う言葉に対するぞわぞわ感の正体がわからないまま日々が過ぎて行きます。
なんだろう。
partner
仲間、協力者、連れ、ダンスの相手、ダブルスを組む人、共同経営者、配偶者
うむ。単に英語被れしてる感じがするからなのかもしれないです。
近似値を求め続ける事
√2 cm は物差しで測れない(作図する事はできる)けど、多分1.4 cmくらいに見えるし、それで誰も困らないはずです。
むしろこの三角形の斜辺は理論上 1.41421356…(ここまでしか覚えていない)って唱えだしたら確実に厄介者扱いされてしまいます。
本当は物差しの目盛りの間には無限に数字が詰まっているけれど、分解能的に丸め込まれてしまうものです。
意見を求められる時、ある時点での思考のログをアウトプットせよと言われているわけではないという事を理解しておかないといけないと思います。
大抵、やり取りされていることはもっと表層的な、ほとんど合言葉のようなものなのかもしれません。
ところが正しい事しか人前で晒したくない、みたいな考えに囚われていると苦痛を感じる事が多いです。
論理的に正しいことには自分の意見が含まれなくて、しかもその前では自分も他人も存在せず日本語再生機みたいな気分で楽に話せるのだけど、意見にフォーカスしようとすると、実際には見聞きした情報にそう思わされているだけの思考が入り混じってきて、納得していない事や使い慣れない人の言葉が散らばり始めます。
昔、英語の先生が
ネイティヴじゃない人がしているのは英作文じゃなくて英借文よ
と言っていたけど、それは日本語でも同じだと思います。
色々な時間、場所で見たり聞いたりしたものも独立して整合性のとれた一塊になった時、なんとなく自分の意見のような気がしてしまいますが、よくよく見てみるとやっぱり自分だけのオリジナルではない事がわかってしまうものです。
自分のものでない、という事は正しいかどうか判断できないという事と同値だと思います。
本来の持ち主にじぶんの精製した考えが正しいかどうか尋ねる時に、自分の意図を伝える点と相手の意図を理解する点で誤差がある可能性が残り続けるからです。
誤差を無くすための作戦は、そもそも他人と頭の中の答え合わせをしない事、または誤差について考察し続けて答え合わせを完結させないことだと思います。
物差しの目盛りをどんどん細かく刻んで桁数を上げればいつか真の値に辿り着けるはずです。
ただ、文字通り無限に時間がかかるので自分ではそういう事はしたくないですね( ´•̥ו̥` )
実際苦痛だと言っても普通に人間界で生活できていますからね多分。
いざとなったら野良猫にでもなってしまおうかと思います。
睡眠事情
よく悪夢を見ます。
前は夢自体あんまり見なかったのに・・・。
今日の夢は地域医療の実習というシチュエーション。
患者は臨月を迎えた、でも見るからに妊娠なんてできなさそうな重症の疾患を抱えた妊婦。
何故か先生が二階に行ってしまい、私は患者と患者家族のいる和室に取り残された。
先生を探しに行こうと階段に向かうと陣痛が始まったからと和室に引き戻される。
言われるがままに渡されたゴム手袋をはめて、ビショップスコアとか付けてみる?と思いながら内診の用な事をしようとした所で飛び出してくる赤ちゃん。
とりあえず羊水を拭いて上げなければ、と思い家族達に拭かせるけれど微動だにしないおかっぱ頭の赤ちゃん。
アプガースコアは2点。
真っ赤な肌をぼんやり眺めていると、いつの間にか現れたおかっぱ少女が赤ちゃんを見下ろして可哀想、と呟いた。
そんな事言わないの、と家族が諭しているのを聞きながらもう一度赤ちゃんに視線を戻すと、そこにはおかっぱ頭の首と腕や胴体のような塊が転がっていた。
という所で目が覚めて、なんでそっちで寝てるの?とさきさんの声が聞こえてきた。
目の前にあったのはこれ。
そんな月曜日の朝でした。
考察
秒速5センチメートルのサントラを聞きながら勉強しています。
こんな曲調が合う場面あったっけ、ともう一度見て確認してみたい気持ちがふつふつと湧いてきています。
私の記憶だと小学生時代の初恋の思い出に幻想を抱きすぎて、その後言い寄ってくる女の子達をなんとなく振りまくり、大人になって初恋の相手は結婚し、幻想から覚めた時に仕事を続ける気力が無くなったみたいな話だったかなと思っているのですが一体どこに・・・。
音楽を聞きながら勉強することに関しては色々思うところがあります。
細かい聴覚の回路についてはあまり良く知らないのですが、少なくとも音が聞こえているということは意識していようがいようまいが聴覚野が働いている事になります。
講義で聞いたのですが、人の脳の聴覚に関わる部位は耳に入る音が大きい程、またその音が人の声の周波数に近い程強く反応するらしいです。
ちなみに楽器を小さい頃から習っていた人はその楽器の演奏に対して強く反応してしまうそうです。
これも様々な議論があるけれど、一応血流が多い部位程エネルギーを消費してたくさん働いているのではないかという考え方があります。
それに従うと、音楽(特に大音量の歌)を聞きながら勉強すると、そこに余分にコストを割いてしまって、必要な部位への供給が減り作業効率が下がります。
これは私の勝手な考察ですが、歌を聞いてその言葉を理解しているという事は言語野も働いている事になると思います。
勉強という作業は言葉の操作が多いのでやっぱり効率が悪くなりそうな気がします。
一方で、音楽を聞いていなくても雑音は常にあるので、そこにも少なからずエネルギーを使われていることになり、しかも経験的にはそれが不快な雑音だったりすると、集中が削がれて作業の効率が下がる感じがします。
結局好きなようにやるのが一番良いという事なんでしょうか。
高校生の時はヘビメタを聴きながら数学の問題を解いていたのですが、いつからかできなくなってしまいました。経年劣化を感じます。
レディースデイ
アリスインワンダーランドを見てきました。
1作目の時はそんなに思わなかったのですが、白の女王というかアン・ハサウェイがかわいすぎた。
赤の女王もかわいかった。
一緒に映画を見ていると、さきさんはよく私には理解できないタイミングで泣いている事があるのですが今回は全く泣いていませんでした。
最近は勉強をしています。
やっている事はひたすら物を出し入れして整理してラベルし直す感じです。
たくさん覚えたりするのって高校生の時に一番バカにしていた作業だなぁとしばしば思い返します。
当時暗記じゃない科目だと思っていた数学や物理も、その根底にはいくつかのルールの記憶が前提になっているはずなんですけどその事は失念していたようです。
今やっている事も量は多いけど、この世界のルールを覚えたらその先には結構自由な思考の余地が広がっているんじゃないかなと期待しています。
医学での自由さってその分野の未発達具合を示しているのかもしれませんが・・・
昨日はずっと秒速5センチメートルのサントラを聞きながら作業をしていました。
ストーリーは全く共感できなかったけど、曲と風景の絵と
もう限界だと知った時、会社を辞めた
という台詞が好きです。
意味はよくわかりません。