近似値を求め続ける事
√2 cm は物差しで測れない(作図する事はできる)けど、多分1.4 cmくらいに見えるし、それで誰も困らないはずです。
むしろこの三角形の斜辺は理論上 1.41421356…(ここまでしか覚えていない)って唱えだしたら確実に厄介者扱いされてしまいます。
本当は物差しの目盛りの間には無限に数字が詰まっているけれど、分解能的に丸め込まれてしまうものです。
意見を求められる時、ある時点での思考のログをアウトプットせよと言われているわけではないという事を理解しておかないといけないと思います。
大抵、やり取りされていることはもっと表層的な、ほとんど合言葉のようなものなのかもしれません。
ところが正しい事しか人前で晒したくない、みたいな考えに囚われていると苦痛を感じる事が多いです。
論理的に正しいことには自分の意見が含まれなくて、しかもその前では自分も他人も存在せず日本語再生機みたいな気分で楽に話せるのだけど、意見にフォーカスしようとすると、実際には見聞きした情報にそう思わされているだけの思考が入り混じってきて、納得していない事や使い慣れない人の言葉が散らばり始めます。
昔、英語の先生が
ネイティヴじゃない人がしているのは英作文じゃなくて英借文よ
と言っていたけど、それは日本語でも同じだと思います。
色々な時間、場所で見たり聞いたりしたものも独立して整合性のとれた一塊になった時、なんとなく自分の意見のような気がしてしまいますが、よくよく見てみるとやっぱり自分だけのオリジナルではない事がわかってしまうものです。
自分のものでない、という事は正しいかどうか判断できないという事と同値だと思います。
本来の持ち主にじぶんの精製した考えが正しいかどうか尋ねる時に、自分の意図を伝える点と相手の意図を理解する点で誤差がある可能性が残り続けるからです。
誤差を無くすための作戦は、そもそも他人と頭の中の答え合わせをしない事、または誤差について考察し続けて答え合わせを完結させないことだと思います。
物差しの目盛りをどんどん細かく刻んで桁数を上げればいつか真の値に辿り着けるはずです。
ただ、文字通り無限に時間がかかるので自分ではそういう事はしたくないですね( ´•̥ו̥` )
実際苦痛だと言っても普通に人間界で生活できていますからね多分。
いざとなったら野良猫にでもなってしまおうかと思います。