カミングアウトは難しい
明けましておめでとうございます。
年明け早々からぐるぐるうじうじと下らない事を考えている。
カミングアウトしたいと思った時に、私の理論を裏付けるエビデンスを示すぜという気持ちが混ざっている事に気付くとやっぱりやめておこうと消沈する事に気付いた。
今まで見せなかった自分の一面が、相手に知ってもらう目的でなくて手段になってしまっている事に嫌悪感が湧くからかなと思う。
理論だとかそれを示す手段というのは、恋愛がらみの話題において人の事を好きになった事がない、人に好意を持たれてもそれを無下にしてしまうような(ノンケの友達の間ではそんな認識らしい)私が何を言っても、薄っぺらく思えて、盛り上がっていた会話も私が言葉を発すると空気が虚しく振動しているだけのように感じてしまうのだけど、カミングアウトすれば自分の言葉が論理的に導かれた理論値ではないと思ってもらえるという期待から来ていると思う。
これは劣等感故なんでしょうね。
他人に関する理解は観察と考察が基本で、時々確証を持てない事を本人に聞いたりしながら経時的に観察して、脳内のその人の像を実物に近づけていく事だと思っている。
実物に近い、というのはその人の反応や言動を精度良く予想できる状態であり、うまく予想出来ていれば衝突を未然に防ぐことが出来るし、その人の役に立つこともできるかもしれない。
自分の中の他人の像というのは、あくまでシミュレーションのための装置なのであまり本人が自分はこうだと主張するものを取り入れ過ぎても意味がないのかなと思う。
自分も常に仮説、検証、仮説の見直しなどとやっているわけではないけれど、ぽろっとこぼした情報がいつ他人に拾われてどんな印象を植え付けるのかなんて想像もつかない。
そんな感じで人の作る私の像を意図しない風に歪めてしまうかもしれないなら、話題になっているわけでもない自分の情報をいちいち話したくないなというのが根底にあるのだけど、その消極的な姿勢を打ち破ってでも自分の事を知ってほしいと思うような何かが湧いてくる気がする時があって、カミングアウトするかな?と考える。
そこで最初に書いた事に気付いて萎えるというのを何度も繰り返している。
友達との会合が近づくとカミングアウトしたい!・・・やっぱり無理!はぁでも言いたい。。というのをさきさんに何回も言ってしまう。
正直鬱陶しいと思うのだけどさきさんはいつもうんうんって聞いて、応援してくれる(多分)。
あんまり毎度の事だと悪いのでもう少し落ち着きたいなぁと思います。